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by oyabeinfo

大谷米太郎・大谷竹次郎兄弟

昭和37年に小矢部市が誕生し、昭和38年に小矢部市水落出身の
大谷米太郎・大谷竹次郎両氏が小矢部市名誉市民に推挙されました。
全国で例のない兄弟での名誉市民の実現でした。

大谷米太郎は、明治14年(1881年)7月24日に生れました。
生家は農家でした。家が貧しくて少年時代は小学校に毎日通うことができず、
朝は暗いうちから起こされて他家へ米搗に雇われて家計を助けました。
その後、酒屋で働き、24歳のときには父に死別して農業に従事しました。
31歳の時、3年間東京で働くことを母から許されて東京に行きました。
いろいろな仕事を転々とするうち、体が人一倍大きく草相撲が強かった
米太郎は大相撲に入り国内を巡業しました。
各地の工場を視察し、後の工場経営の参考としました。
けがで大相撲を引退して酒の小売を始めました。
その後、ロール製造の下請け会社を始めました。
そして、関東大震災での被災、太平洋戦争での戦災という大きな苦難を
乗り越え、米太郎は会社を大谷重工業として大きく発展させました。

また、多くの会社の再建に援助を惜しまず、日本経済界に輝かしい功績と
足跡を刻みました。
大谷重工業は、合併によりその名は消えたものの、エスイーシーや
ホテルニューオータニ、大谷産業などの各事業に成功をおさめました。

弟の大谷竹次郎は、明治28年(1895年)4月27日に生まれました。
兄の経営するロール製造会社に入り、兄の事業を助けました。
そして、多年にわたり兄米太郎と協力して新製品の開発を続け、
鉄鋼業界に大きな貢献をしました。
特に、昭和37年には、当時世界最大の電気炉に必要な太物電極の開発・
国産化に成功したことは、日本鉄鋼業界にとってのノーベル賞的な価値があり
竹次郎の功績として高く評価されています。

また、二人とも生前から報恩の念が強く、自分の資産を郷土や地域社会に
寄付という形で還元しています。
「家が貧乏で学校に行けんかった」が口癖で、教育関係への寄付には特に
熱心でした。
小矢部市の石動小学校、大谷小学校の2校舎新築、
大谷技術短大(現・富山県立大学)設立、
小矢部市庁舎建設などの際に、巨額の寄付を行いました。

兄弟で角界入りした特異な経歴もあって、スポーツ振興にも情熱を傾けました。
大谷重工の相撲部は日本一といわれ、兵庫県選手団として国体団体優勝など
輝かしい成績を治めました。

弟の竹次郎氏は、兵庫県西宮市にあった居宅を、愛蔵の書画、骨董美術品と
ともに同市に寄付し、現在は大谷記念美術館として憩いの場になっています。
また、竹次郎は近畿富山会館建設にも多額の寄付をして協力しました。
昭和41ねんには近畿富山県人会会長に就任し関西の県人たちの結束を支え
後進の世話にあたりました。

米太郎は昭和43年に86歳で亡くなり、竹次郎は昭和46年に76歳で
亡くなりましたが、二人の遺志は竹次郎の子・大谷勇に引き継がれ、
小矢部市の相撲場建設、大谷中学校の校舎新設や小矢部市の
ランドマークである、118mのタワーのある「クロスランドおやべ」の建設に
多額の寄付を行いました。
また、児童生徒の発明工夫を表彰する大谷科学賞も創設しています。
会社のある兵庫県では大谷教育文化振興財団を設立し、奨学金の貸与など
学校教育の援助を行っています。

                             -ふるさとガイドおやべより-

*平成24年8月小矢部市制50周年記念式典で、
 大谷製鉄会長の大谷勇氏に名誉市民の称号が贈られました。

                            


                                       
by oyabeinfo | 2014-11-07 15:55

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